2011年5月17日火曜日

蓼科便り187号・田舎暮らし便り(蓼科より)

★ーーーーーーーーーーーーーーーーー2011年5月14日(土)★
★ 今回のテーマ:「ミツバチからのメッセージ」& 原発魔女狩り
★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★
 前号も日付を間違えました。お恥ずかしい!正しくは5月7日(土)です。

 やはり,農楽の春は忙しいです。ちょっと遡りますが,4月29日はボランティアで「ファームエイドGinza」に参加しました。松屋裏のビル屋上でミツバチを飼い,昨年90Lも蜜を絞ったという話題の人・グループが主催です。いろんな催しがありましたが,その中に「在来種ミツバチの現状と未来」というフォーラムがあり,「日本在来種ミツバチの会」会長・東京農大教授の藤原先生,兵庫県立大学大谷教授,元学習院大教授川嶋先生(紀子様のご尊父)の話をお聞きすることができました。
 ところが5月4日,友人に誘われて東御市文化センターで行われた「ミツバチからのメッセージ」と「いのちの林檎」の映画会に参加したら,何とそのミツバチの映画に上記の先生方が出演なさっていたのです。その感想は下記ブログに書きましたのご覧下さい。
http://tateshinadayori.blogspot.com/2011/05/blog-post_04....
 ついでに友情コマーシャルを一つお伝えします。 6月5日(日)午後1時半より,長野市信州大学工学部研究棟1階大会議室において,「地球環境フォーラム」が主催する第8回「地球環境フォーラム」が開催されます。メインは,映画「レイチェル・カーソンの感性の森」観賞です。今日試写会があり見せてもらいましたがすばらしい映画です。私は20程前に主著「沈黙の春」を読み,農薬の恐ろしさを知らされました。お問い合せは,090-3585-2310(和田)か090-3145-7962(新井)まで。お出かけ下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/レイチェル・カーソン
ーー
 5月10日には,3週間ばかりかかった畦整備が終り,待望の水入れが始まりました。今年は水深20センチまで水を貯める(深水管理)予定です。除草については「乳酸菌除草」にチャレンジしています。
 家の前の体験農園では,友人の温室で育てた苗の生育が良くて,今までで最高の野菜ができました。コカブ,ミズナ,コマツナ,チンゲンサイ等。とても美味しいです!虫除けネットもかけたので,虫が着かず雨による土汚れもありません。農楽を始めて3年目なので,土も良くなり,管理の勘所も判るようになってきた?からでしょう。
ーーーーー
 原発については,少々頭が混乱してきましたが,徐々にですが真相が見えてくる気がします。その後のAさんとのやり取りを転載します。原発問題の原点がここにあると思いました。
ーー
(A)推進論と反対論では、常に推進論が不利です。安全の立証が求められるからです。逆に反対論は、危険の立証が不必要です。
そのことが逆に、危険を呼び込む結果になっていると思うのです。
 私は、原発建設の技術者として、反対住民との説明集会に引っ張り出されたことがあります。一生懸命、なんども説明しましたが、相手は聞く耳を持ちません。「作りたければ、100%安全と言え」と迫られます。
 私たち技術者は、「技術に100%はありません。99.9999%(これをシックスナインというのですが)が安全限界です」と答えましたが、一斉に「それみろ、安全じゃないんだな」と罵られました。罵声を浴び続けながら、心の中で、「なんとバカバカしい、不毛なことか」と沈んでいました。
 東電の清水社長の土下座映像を見た時、あの時の苦さ(にがさ)がよみがえってきました。状況は違うのですが、場面はリプレイしたように同じです。被災者の方のやるせない気持ちは分かりますが、「土下座しろ」は一種の暴力と思うのですが違うでしょうか。
 強硬な反対論は、往々にして暴力に走ります。かっての連合赤軍、反捕鯨のSSなど、枚挙にいとまがありません。「反戦」、「平和」という名の暴力は恐ろしいです。成田空港の建設では、私の勤務していた会社の現場事務所が焼き討ちに会い、社員にけが人も出ました。でも、反対闘争側の人からすれば、「建設推進が暴力なんだ」となるのでしょうね。
ーー
(A)この反対派が絶対多数となり権力を握ったのが中世ヨーロッパです。当時の教会は、科学の推進である地動説を認めず暴力による弾圧を行いました。
 比較するのは適切ではありませんが、放射能完全否定論は、それに近くなっていると思います。稲博士に対するネットでの攻撃はどんどん増えています。「茨城の恥」とか「にせ医者」とか言う人たちも多くなっています。
 稲博士の「1000ミリシーベルトでも大丈夫・・」という発言は、反対派の火に油を注ぐ結果となります。私が「稲博士は言い過ぎ」と書いたのは、反対ではなく、攻撃の激化を心配してのことです。
 私も、HPのコーナーでは「短時間での被曝限界は1000ミリシーベルト」と書きました。でも「大丈夫」とは言い切れません。「おそらく、何らかの障害が出ると思うが、その場を離れれば細胞は修復する」と、後の回で解説しました。自分の経験でも「500ミリシーベルト」ですから、1000の被曝は正直言って怖いです。
 でも、現段階の被曝レベルでは、死んだりすることはないし、むしろ体力が強化される可能性もあります。そのことで、稲博士の主張を理解しました。
 日本を含む原発推進国は、低レベル放射線の長期被曝の追跡結果や、私のような一定期間、ある程度の大量被曝をした者の追跡結果を持っていると思います。ですが、それらは一切公開されていません。反対派の人たちは、「恐ろしい結果が出ているので、隠している」と解釈します。推進派は「問題ないから公表しないのだ」と解釈します。
 それなら「公開したら良いのに」と、一般の人は思います。ですが、そうは簡単にはいきません。「安全」と言い切るだけのサンプル量がないからです。
 まして、健康になったという例の抽出は困難です。
 おそらく、稲博士やラッキー博士は、そのようなサンプル例を持っているのだと思います。論文にはそれらしい記述もありますが、何しろ専門用語いっぱいの英文論文です。私の英語力では到底解読不能です。
ーー
(私:上記Aさんのメールに,ちょっと気張った返事を書きました)
 私はAさんのメールを読んで,現在起こっている原発・放射能問題の本質が判った気がしています。以下に説明します。
 それは前回のメルマガに載せた永井隆氏の言葉に真相があると気がついたのです。「祖国は破れた。国は壊滅し、荒野になった。しかし、この思いは日本人、日本国民が科学者をないがしろにしたせいである」という言葉です。「科学者をないがしろにしたせいである」を「科学をないがしろにしたせいである」と読み替えたのです。実質的に意味するところは一緒ですが。
 対米戦争で,「祖国は破れた。国は壊滅し、荒野になった。」原因は,好戦派とマスコミが無責任且つ非科学的な思考の下に好戦的世論を煽り立てた結果だと聞かされています。言いたいことは,主張・論調が「科学的ではなかった」ということです。
 今の原発・放射能問題が全く同じ状況になっているのではないでしょうか。物理学者,放射線学者,放射線医学者の言うことを素人が批判し抗議し,それをマスコミが煽っています。これが非科学的でなくて何でしょう?
 科学者同士が理論を闘わせるならいいのですが,科学者に向かって素人が「おかしい」とか「間違っている」なんて,あっても良いのでしょうか。素人が専門家を吊るし上げるなんて,ただのリンチであり,暴力でしかありません。マスコミは,戦前は大政翼賛に肩入れしましたが,近年は真偽を極めようとせず大衆に迎合しています。売上のことしか考えていないように見えます。いずれも「科学をないがしろに」しています。
 冷静にということは,科学的にということです。非難や吊るし上げではなく,新聞テレビで科学的論争をドンドンやれば良いと思うのです。一方,放射線学界が沈黙しているのもおかしいです。何故,国民に見える形で議論を闘わせないのでしょうか。
 反核・反戦・平和強硬論者は,戦前の好戦論者の裏返しですね。70年前の対米戦争を決定した時の政治・世論と,今の原発政治・世論と何も変わっていないのでは。共通項は非科学性です。非科学性が,70年前は魔女(鬼畜米英)づくりを行い,今回は魔女(原発100%安全)刈りをやっているのです。
ーー
(A)仰られる通りです。戦争末期、特攻隊の家族は、近所から軍神の家族として扱われました。最愛の息子を、夫を、兄弟を失うという悲しさを無視してです。それが、8月15日を境に一変します。戦争推進者の家族として罵られ、家には石が投げられました。やはり、家族の悲しみは無視してです。
 一般大衆とはかくも愚かで、マスコミはこれをエサにします。
 憲法第十二条に、こう書いてあります。「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」。今日の事態は、「不断の努力」という、この義務を果して来なかった国民の怠慢が主因であり、政治家や官僚だけの責任ではないと思うのです。
ーー
(私)「作りたければ、100%安全と言え」。ここで原発の魔女が誕生したんですね。私なりに魔女とは何かを考えました。答えは,「魔女」とは,「現実に存在し得ない,時の世論支配者に都合の良い象徴」となりました。遊びの中に魔女が出てくると楽しいですが,国家を命運を左右する重要問題に魔女が登場する時,国家は危うくなる,そんな気がしてならないのです。
 騙した方も騙された方も同罪だと思っています。騙した振りと騙された振りをした共犯だと思います。何故なら,科学と技術に100%安全がないのは絶対的公理であるにも関わらず,それを否定した「あり得ない原則」の上に立って合意しているからです。
 ですから,東電=加害者、福島県=被害者、の図式にはどうしても違和感があります。
 少なくとも戦後の日本は独裁でも圧政政治でもありません。素人談義ですが次のように考えています。「民主主義とは,決まった結果が意にそぐわないことであっても,今起きている現実は自分の選択の結果であるとするシステムである。選ばれた人がやった過ちは選んだ人のやった過ちでもある。反対票を投じた人でも,責任と義務は同じである。ましてや多額の経済的恩恵を受けたのであれば何をか言わんやではないか。」ということです。
ーーーーー 
 長過ぎることは十分承知しているのですが,途中で切れないのです。すみません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<わたしのサイト>・リンクを貼って頂けませんか?
田舎暮らし情報館(蓼科より): http://tateshinadayori.blogspot.com/
田舎暮らし動画: http://jp.youtube.com/user/takasukey
「佐久バルーンフェスティバル」と「野焼き」をアップロードしました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Topに戻る

2 件のコメント:

たかはししん さんのコメント...

僕の論点は少し違う。
まず電力の送電喪失という観点から電力消費地の近くに発電所を建設するということが経済効率上有益だということ。
原子力発電所も大消費地に隣接して建設するべきではないかということ。
どんな技術にも100%はないというが、残り0.00001%の不確定要素の大きさが問題なのではないですか。
不確定要素の大きさが水力発電や火力発電、風力発電と同等ならば青海の埋め立て地に建設すれば送電コストも安く済むし、送電喪失も小さくて済む。結果今よりも安価な電力が提供できるのではないだろうか。
その不確定要素の大きさがほかの発電方法よりも小さいのだと説明できなければ納得できる人は増えないと思う。


また違った観点から
電力会社の選択権がないということ。
これが不満だ。
米国スリーマイル島事故の時は、近隣の地区で住民投票が行われて料金は高いが原子力発電所より事故リスクの低い水力で発電している電力会社へ地域電力の供給会社を変更するということあった。
日本ではこれができない。
僕はそれほど安価な電力を求めていない。
それほど多くの電力を使用する生活も望んでいない。
発電コストが高く供給が不安定な電力も構わない。比較して発電所としてより安全な運転が行える発電所の電力で構わない。

たかはししん さんのコメント...

たかはししんです。

結論を書き忘れました。

どんなものでも、利益享受者がリスク管理を行わなくてはいけないということです。

今回の事故は顕著で、営業区域外の発電所の事故で電力使用者ではない人たちが被害者になっているという歪な構造に問題があると思う。